ジローラモさんといえば、イタリア出身ながら日本で長く活躍し、「ちょいワルオヤジ」ブームの火付け役としても知られていますよね。
そんなジローラモさんの私生活、とくに奥さまである貴久子さんとの関係や子供の有無、そしてご家族の背景について気になっている方も多いのではないでしょうか。
テレビでは陽気で軽快なキャラクターを見せてくれますが、その裏にはどんな家庭環境があるのか、どんな兄弟と育ち、どんなお父さん・お母さんのもとで育ってきたのか。
表舞台では語られない素顔が垣間見えるかもしれません。
この記事では、ジローラモさんの奥さま・貴久子さんとの馴れ初めや子育て事情をはじめ、兄弟構成や両親との関係についても幅広く調査しました。
意外な一面が見えてくるかもしれませんので、ぜひ最後までご覧ください。
ジローラモの嫁は貴久子
長年日本のテレビや雑誌で活躍してきたジローラモさん。
その裏で、公私ともに支え続けてきたのが、妻の貴久子さんです。
貴久子さんは、多摩美術大学で日本画を学び、卒業後は陶芸の道を志してイタリアへ留学。
そこでジローラモさんと出会い、国際結婚に至りました。
結婚後はイタリアと日本を行き来しながら、料理研究家や文化翻訳者として活動の幅を広げていきます。
特に注目されているのが、料理家としての実績です。
イタリアで培った本場のレシピと、日本人の味覚に合ったアレンジを融合させたスタイルは多くのファンを惹きつけ、「嫁入りレシピ」やイタリア家庭料理に関する著書も人気となっています。
また、東京・中目黒ではイタリア料理店「コチネッラ」を開業し、家庭とプロの味をつなぐ存在としても知られています。
夫婦仲は現在もとても良好なようで、テレビ番組などでもジローラモさんが「奥さんには頭が上がらない」と話す場面がたびたび見られます。
SNSやインタビューでも、貴久子さんとの日常を柔らかいユーモアを交えて語るなど、30年以上連れ添った今もその関係は自然体。
お互いをリスペクトし合いながら、対等な関係を築いている様子がうかがえます。
表舞台ではクールでダンディなジローラモさんですが、家庭ではどこか素朴で愛嬌のある“いい夫”ぶりが垣間見えます。
貴久子さんという芯のあるパートナーがいるからこそ、ジローラモさんもまた、安定した活躍を続けていけるのかもしれません。
今なお仲睦まじいふたりの関係は、国際結婚の理想形として多くの人に勇気やヒントを与えています。
ジローラモと嫁の馴れ初め
ジローラモさんと貴久子さん(パンツェッタ貴久子さん)は、1986年にイタリア行きの飛行機で出会ったのがすべての始まりです。
ジローラモさんが仕事で日本から帰る途中、たまたま隣の席に座っていたのが、陶磁器修行のためにフィレンツェへ留学予定だった貴久子さんでした。
そのときジローラモさんが「寂しそうに見えたから」と話しかけたことで自然な会話がはじまり、その出会いが運命へとつながったそうです。
初対面の印象について、貴久子さんは「到着までずっとおしゃべりしてくれて、楽しい人だなと思った」と語っており、ジローラモさんの明るさが距離を縮めるきっかけだった様子がうかがえます。
その後、留学先のフィレンツェと、ジローラモさんの拠点であるナポリとの間で、週末ごとに遠距離デートを重ねたそうです。
ナポリ滞在時に再会し、友情を深めたのち、1年ほど経ってから交際に発展しています。
印象的なのは、貴久子さんがホームシックにかかっていた際のエピソード。
ジローラモさんがマレンマ種の仔犬を連れて会いに行き、自然なかたちで励まし、その心遣いがふたりの絆を深めたといわれています。
仔犬はコミュニケーションの媒介となり、お互いの距離をグッと縮める温かなエピソードになりました。
その後、程なくして二人はイタリアで形式的な婚約手続きを済ませ、1988年に入籍。
日本に戻ってからも挙式を行い、日本で新たな生活をスタートさせることになります。
なぜその出会いが特別だったのか
- 偶然の中の必然:飛行機での出会いは、当時の交通手段としても稀なチャンス。ゆえに、まさに運命的だったと語られています。
- 相手を思いやる行動力:ジローラモさんが仔犬を連れて訪ねた行動は、言葉よりも強い気遣いとして貴久子さんの心に響いたようです。
- 遠距離を克服した本気の想い:ナポリとフィレンツェを週末ごとに行き来する情熱は、「本気でつながりたい」という意思の表れといえるでしょう。
このように飛行機の出会いから始まった物語は、友情から恋愛へと自然に変化し、一歩ずつ確かな関係へと育まれていきました。
以降、イタリアと日本を拠点とした二人三脚の日々が始まります。
ジローラモの子供は?
ジローラモさんと貴久子さんは、1988年に結婚して以来、30年以上にわたって公私ともに支え合いながら歩んできたご夫婦です。
そのなかで、「ふたりに子供はいるの?」と気になる方も多いようですが、現時点でジローラモさんにお子さんがいるという情報は確認されていません。
過去のインタビューやテレビ出演時などでも、家族の話題は夫婦のことが中心で、子供に関する言及はほとんど見られません。
また、料理家として活動している貴久子さんの公式プロフィールや著書にも、子育てに関する記述はないことからも、おふたりには子供がいないと考えられています。
子供を持たない理由については、本人たちが公に語っていないため、明確な理由はわかっていません。
ただ、結婚当初から精力的に活動を続けていたジローラモさんは、イタリアと日本を行き来しながらモデルやタレントとして活躍し、貴久子さんもまた料理教室の主宰や著作活動、レストラン経営などで多忙な日々を過ごしていました。
そうしたライフスタイルのなかで、おふたりなりの人生設計を選んだのかもしれません。
さらに、貴久子さんは40代の頃に乳がんを患い、手術を受けた経験を持っています。
その後も前向きに活動を続けられていますが、体調や将来への見通しも含めて、夫婦で話し合いながら最良の選択を重ねてきたのでしょう。
外野から一概に推測することはできませんが、子供がいないことはふたりにとって自然な流れだった可能性もありそうです。
一方で、ふたりの人生は非常に充実しています。
東京・中目黒で開かれている料理教室には多くの生徒が通い、著書も多数出版されています。
まるで“食を通じて育ててきたもうひとつの家族”と呼べるような関係性が築かれており、そこには温かいつながりが確かに存在しています。
ジローラモさん自身も、「家族のカタチは人それぞれ」というようなスタンスを感じさせる穏やかな語り口で、夫婦の日常をメディアで紹介してきました。
子供がいるかどうかにかかわらず、ふたりの間には深い信頼と絆があり、その関係性が長く続いていることこそが大きな魅力と言えるのではないでしょうか。
家庭の在り方は一つではありません。ジローラモさんと貴久子さんの歩んできた道には、“子供を育てる”というスタイルとは別のかたちで、多くの人に愛情や文化を伝える力が詰まっています。
その姿は、今の時代における豊かな生き方のひとつとして、多くの共感を集めています。
ジローラモの生い立ち
ジローラモさんは、1962年9月6日にイタリア南部・カンパニア州の小さな町「ヴィッラノーヴァ・デル・バッティスタ」で生まれました。
ナポリの近くにあるこの町は、のどかな田舎町。そこで、3人兄弟の末っ子として育ったそうです。
お父さんは建設会社を経営していて、現場で大声を飛ばすような厳格な性格だったんだとか。
子どもの頃は少し怖い存在だったそうですが、14歳のときにそのお父さんが急逝。
大人になってからは「あのときもっと話しておけばよかった」と語っていたこともあります。
家族との関係をとても大切にしてきたジローラモさんにとって、大きな転機だったのかもしれません。
実は、学生時代はサッカー少年でもありました。地元の名門クラブ・ナポリのユースチームに所属していたこともあるほどの実力派。
ただ、怪我の影響で選手としての道は断念することになり、その後はナポリ大学に進学。
建築学を学びながら、歴史ある建物の修復に携わるようになりました。
若いころには、イタリア南部で起きた大地震の復興活動にも参加したことがあるそうです。
当時の経験が、「人の役に立ちたい」「文化を守りたい」という価値観につながっていったのではないでしょうか。
そんななか、大学は途中で辞めてしまうのですが、これがきっかけで日本への道が開けます。
1988年に日本に渡り、日本語学校を経て明海大学の経済学部へ。
当初は語学と経済を学ぶつもりで来日したものの、持ち前の明るさと話術が評価されて、NHKの語学番組やファッション誌などで注目されるようになります。
特に有名なのは、雑誌『LEON(レオン)』での活躍。
「ちょいワルオヤジ」ブームの立役者として人気を集めたことで、一気に“おしゃれなイタリア人”というイメージが定着しましたよね。
とはいえ、ただのファッションアイコンにとどまらないのがジローラモさんのすごいところ。
2006年にはイタリア政府から「カヴァリエーレ勲章(騎士の称号)」を受けています。
これは文化・社会活動で両国に貢献した人物に贈られる名誉ある称号で、日本とイタリアの架け橋としての活動が評価された結果でした。
最近では、テレビや雑誌にとどまらず、YouTubeチャンネル「ジローちゃんねる」や地方創生プロジェクトなどにも関わっていて、福島・会津美里町では「GIRO米」というお米のブランドを立ち上げるなど、農業にも本気で取り組んでいます。
建築から始まり、語学、芸能、食、地域づくりへと、ジローラモさんの人生はまさに“多彩”そのもの。
どの分野にも軸がぶれないのは、おそらく若い頃から家族や文化、人とのつながりを大切にしてきたからこそなのかもしれません。
飾らないけれど芯のあるその生き方に、惹かれる人が多いのも納得ですね。
ジローラモの兄弟
ジローラモさんはイタリア南部・カンパニア州の小さな町で、三人兄弟の末っ子として育ちました。
お父さんが亡くなった14歳時点で既に兄弟姉妹は揃っていて、当時の家族構成が気になりますよね。
実は、長兄が11歳年上、姉が12歳年上と、さらに5歳年上の姉がいたと伝えられており、けっこうにぎやかな兄弟姉妹構成だったようです。
まず長兄について。お父さんが亡くなった後、建設会社の経営を継いだのはこの長兄です。
ジローラモさん自身もその後、家業を手伝うようになったそうで、家族とともに働くことで「頼りがいのある人だった」という父親の面影を感じられたとのこと。
姉妹については、公に詳しい情報は少なめですが、長姉(12歳年上)と次姉(5歳年上)は、いずれも家庭の中で支え役として存在感があったと想像されます。
イタリアの大家族では、姉が家事や妹弟の世話を担うことも多く、ナポリ郊外の家庭でも自然とそんな役割分担があったのかもしれません。
兄・姉たちが存在するなかで末っ子として育ったジローラモさんは、お父さんの厳しさもありつつ、兄からは「家業を継ぐ責任感」、姉からは「家庭を支える優しさ」を受け継いだようです。
実際、長兄が率いていた建設会社で働いた経験や、姉たちが家庭を守る姿は、ジローラモさんの価値観や人間性にも影響を与えたのではないでしょうか。
興味深いのは、ジローラモさん本人が過去のインタビューで、「長兄のおかげで父のぬくもりを感じられるようになった」と語っている点です。
仕事を通じて「父の威厳」に触れ、自分もその空気の中でやっと父を身近に感じられた、と振り返っています。
幼少期は「父が怖い存在だった」とも言っていたのですが、兄とともに仕事をしたことで、家族としての絆が深まった印象が伝わってきます。
兄弟との関係性が、後の人生の基盤にもなっていたことは間違いありません。
大勢の兄姉がそばにいる中で育った末っ子だからこそ、「家族の中で役割を果たすこと」「支え合うこと」の大切さを自然に身につけたのかもしれませんね。
ジローラモさんは、三人兄弟の末っ子として育ち、長兄が家業を担っていく中で、家族との絆や役割意識を学んできたようです。
明るく社交的なイメージの背景には、子どもの頃から培われた「家族への責任感」や「支える姿勢」があったのかもしれません。
ジローラモの父親
ジローラモさんのお父さんは、イタリア南部で建設会社を経営していた方です。
ナポリ近郊を拠点に、高速道路や港湾施設といったインフラ工事を手がけていたそうで、まさに「職人気質で現場主義」なお父さんだったようです。
現場では声が通らないことも多かったため、つねに大きな声で指示を飛ばすのが当たり前。
それが家庭でもつい出てしまい、ジローラモさんは「家の中でもお父さんの声はすごく響いていた」と振り返っています。
その厳しさもあって、子どものころはあまり多くを話せなかったそうですが、今となっては「ああいう存在がいてよかった」としみじみ語る場面もあります。
特に印象深いのは、14歳のときにお父さんが病気で亡くなったこと。
思春期を迎えたばかりの年齢で突然の別れを経験したことは、大きな心の節目になったようです。
ジローラモさん自身、「もっとちゃんと話せばよかった」と悔やむ気持ちをにじませながらも、今は感謝の念を強く抱いていることがうかがえます。
家業はその後、11歳年上の長男が継ぐことになり、ジローラモさんも兄と一緒に現場で働いた経験があるそうです。
そのなかで、周囲の職人さんたちから「お父さんはすごく頼りになる人だった」と言われることが何度もあったといいます。
そうした言葉を通じて、直接は多くを語り合えなかった父の人柄や、背中で示していた“生き方”がジローラモさんに伝わっていったのでしょう。
また、お父さんは仕事一筋なだけでなく、おしゃれにも気を配る方だったようです。
現場に行くときも仕立ての良いジャケットを羽織っていたというエピソードは印象的で、そうした美意識はジローラモさんのファッションセンスにも受け継がれているのかもしれません。
雑誌『LEON』で一躍脚光を浴びた“ちょいワルオヤジ”スタイルにも、お父さん譲りの「男のこだわり」が潜んでいそうです。
さらに、ジローラモさんが建築の道を志した背景にも、お父さんの影響があると考えられます。
ナポリ大学で歴史的建築物の修復を学んだのち、日本に渡り、文化や芸術、食や農業に至るまで幅広い分野で活躍している姿には、「形あるものを守る」精神が根底にあるように見えます。
家族を大切にしながら、地に足のついた仕事をまっすぐ続けていたお父さんの姿が、その軸を支えているのかもしれません。
時には厳しく、時にはおおらかに、家族を支えていたお父さん。
早くに亡くなってしまったものの、その存在は今もなお、ジローラモさんの中で大きな影響を与え続けているようです。
自分らしく生きながらも、根底には家族への尊敬や感謝がしっかりと根づいている──ジローラモさんの芯の強さは、そんな原点から育まれてきたのかもしれませんね。
ジローラモの母親
ジローラモさんのお母さんは、現在もイタリアで元気に暮らされていて、なんと99歳!(2025年5月21日時点)
95歳のときに恋人ができて“第二の青春”を楽しんでいるという驚きのエピソードもうかがえています。
子育ての環境や性格については詳細に語られていないものの、一貫して「家族を守る人」という印象が強く伝わってきます。
ジローラモさんは、お父さんが若くして亡くなった後はお母さんに育てられたそうで、愛情深く、たくましい存在だったことがうかがえます。
お母さんは料理上手でもあったようで、ジローラモさんが子どもの頃には毎日のようにパスタを作ってくれていたそうです。
でも、さすがに毎日だと飽きる子どもに、特別な日にだけお米のオーブン焼き料理を振る舞ってくれたんだとか。
その料理は「リーゾ・アル・フォールノ」と呼ばれ、トマトソースやハム、卵など具沢山で、ごちそう扱いだったのだそうです。
こうした家庭の食卓が、ジローラモさんの“お米好き”や日本での農業活動、特に福島県会津美里町での有機栽培プロジェクト「GIRO米」へと続いているのが面白いですよね。
お母さんの味への思い出が、文化を越えて次世代へ繋がっているようです。
また、TBSラジオのインタビューでは「お母さんは守る人。お母さんは堅かった」と振り返っていて、支えとしての存在感を強調しています。
「お父さんは遊び人、お母さんがいたからお父さんがいた」と笑いながら語っていたことからも、家庭の中でどれだけしっかり者だったかが伝わってきます。
現在も、イタリアの故郷でのびのびと暮らすお母さんは、「独り身だったけれど、今は明るく前向き」とジローラモさんがメディアで話している通り。
95歳で恋人ができたという話も象徴的で、「人生に遅すぎることはないんだな」と感じさせられます
まとめ
イタリア出身の文化人・ジローラモさんは、華やかな見た目やトークの軽快さが注目されがちですが、その背景には深い家族愛と確かな人生経験がありました。
結婚相手の貴久子さんとは、イタリア行きの飛行機で出会った運命的なご縁から始まり、今も夫婦仲はとても良好。
子どもはいないものの、料理教室や文化活動を通じて多くの人とつながる“広義の家族”を育んでいます。
実家では建設業を営む厳格なお父さんのもと、三人兄弟の末っ子として育ち、14歳で父と死別。
その後は家業を継いだ長兄や、支え合う姉たちの存在のなかで成長してきました。
若い頃に感じた後悔や尊敬の念が、仕事観や人との関わり方にも大きな影響を与えているようです。
そして現在も元気に暮らす99歳のお母さんは、厳しくもしっかり家庭を守る存在。
手料理や日々の姿勢がジローラモさんの価値観に深く根づいており、福島での農業活動や日本文化への関心にもつながっていると考えられます。
ジローラモさんという人物は、表に出る華やかさだけでなく、家族や故郷から受け継いだ強さと優しさでできている――そう感じさせてくれる、温かく奥行きのある人生でした。