奇術師として長年にわたりテレビや舞台で活躍を続けてきたマギー司郎さん。
その独特な語り口と、どこか親しみを感じるパフォーマンスで、幅広い世代から愛されていますよね。
そんなマギー司郎さんについて、「実は本名って何?」「年収はどれくらいあるの?」といった素朴な疑問を持ったことがある方も多いのではないでしょうか。
さらに、所属事務所や学歴、育った実家の環境、そしてご両親や兄弟についても気になるところ。
表舞台では見せない、マギー司郎さんのプライベートな一面を知ることで、これまでとは違った魅力が見えてくるかもしれません。
この記事では、そんなマギー司郎さんの人物像にぐっと迫り、気になる情報をわかりやすくまとめてご紹介していきます。
マギー司郎の本名
マギー司郎さんの本名は「野澤 司郎(のざわ しろう)」です。
1946年3月17日、茨城県下館町(現在の筑西市)で生まれました。9人兄弟の7番目として育ち、17歳のときにマジシャンを志して上京。
マジックスクールで技術を磨き、20歳でプロデビューを果たしました 。
芸名「マギー司郎」は、師匠であるマギー信沢さんから受け継いだ「マギー」の名と、自身の本名「司郎」を組み合わせたものです。
この芸名は、師匠への敬意と自身のアイデンティティを表現しています。
マギー司郎さんの芸風は、独特の間とユーモアを取り入れたマジックで、多くの人々に親しまれています。
その親しみやすさは、芸名にも表れているのかもしれません。
本名「野澤 司郎」と芸名「マギー司郎」—この二つの名前には、師匠との絆や自身の歩んできた道が込められているようです。
名前の由来を知ることで、マギー司郎さんの人柄や芸への情熱がより深く感じられるのではないでしょうか。
マギー司郎の年収
マギー司郎さんの年収については、公式な発表がないため正確な数字は不明ですが、過去のテレビ番組での情報やご本人の発言から、ある程度の推測が可能です。
2014年に放送されたTBSのバラエティ番組「年収格差別!お金バラエティ ピラミッド」では、マギー司郎さんの年収が約215万円と紹介されました 。
この数字は、他のマジシャンと比較しても控えめな金額であり、マジック業界全体の収入事情を反映しているとも言えます。
また、2022年12月に放送されたフジテレビの番組「超しらべてみたら」では、マギー司郎さんが自身の国民年金受給額について、「1カ月約3万5000円」と明かし、「(その額では)生活できないですよね」と語っています 。
この発言からも、年金だけでは生活が難しいことがうかがえます。
ただし、マギー司郎さんは現在もテレビ番組やイベントに出演しており、2025年にはBS朝日開局25周年記念のマジックショーにも参加しています 。
このような活動から、現在も一定の収入を得ていると考えられます。
マジシャンとしての収入は、テレビ出演料、公演ギャラ、弟子の指導料など多岐にわたりますが、全体的に見ると高額な収入を得るのは難しい職業です。
マギー司郎さんのように、長年にわたり第一線で活躍し続けることが、安定した収入につながるのかもしれません。
マギー司郎のプロフィールや経歴
名前 マギー司郎(まぎー しろう)
本名 野澤 司郎(のざわ しろう)
生年月日 1946年3月17日
年齢 79歳(2025年時点)
出身地 茨城県筑西市(旧・下館町)
職業 マジシャン(奇術師)、タレント
芸風 おしゃべりマジック、コミカルマジック
デビュー 1966年頃(20歳でプロマジシャンに)
代表的な弟子 マギー審司 ほか
マギー司郎さんは、1946年3月17日生まれ、茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)のご出身です。
本名は野澤司郎(のざわ しろう)さんで、9人兄弟の7番目として育ちました。
17歳で上京し、マジックスクールで手品を学んだ後、20歳でプロのマジシャンとして活動を開始しました 。
初舞台はストリップ劇場で、当初は正統派のスライハンドマジックを披露していましたが、茨城弁を活かした「おしゃべりマジック」へと芸風を転向。
これが功を奏し、1980年には『お笑いスター誕生!!』で7週連続勝ち抜き、テレビなどのメディアにも活躍の場を広げました 。
現在は、マギー審司さんなど多くの弟子を持ち、マギー一門の領袖として後進の育成にも力を注いでいます。
また、2024年3月時点で、通算の高座数は約2万5000回に達し、舞台を休んだことは一度もないとされています 。
マギー司郎さんの芸風は、メガネに口ヒゲ・黄色い燕尾服の風貌で、飄々とした茨城弁による客いじりで煙に巻くスタイルが特徴です。
「縦縞のハンカチを横縞にする」や「麦茶を烏龍茶にする」などのインチキ手品を行いつつ、トークで笑いを取り、最後は正統派マジックで高座を締めるという構成で、多くの人々に親しまれています 。
受賞歴も豊富で、1981年と1982年には「日本放送演芸大賞ホープ賞」を受賞。
1997年には奇術協会・松旭斎天洋賞を受賞するなど、その功績が認められています
マギー司郎さんのこれまでの歩みは、独自のスタイルを確立し、多くの人々に笑いと驚きを提供してきた軌跡です。
今後も、その温かみのある芸風で、さらなる活躍が期待されます。
マギー司郎の所属事務所
マギー司郎さんが所属する事務所は「オフィス樹木(じゅもく)」です。
この事務所は、マギー一門の活動拠点として知られ、マギー司郎さんをはじめとする弟子たちが所属しています 。
オフィス樹木の公式ウェブサイトでは、マギー司郎さんのプロフィールや出演情報、マギー一門の系図などが掲載されており、ファンや関係者にとって貴重な情報源となっています 。
また、マギー一門には、マギー審司さん(マセキ芸能社所属)やマギー瑠美さん(オフィス樹木所属)など、多くの弟子たちが在籍しており、それぞれが独自のスタイルで活動を展開しています 。
このように、オフィス樹木はマギー司郎さんの芸能活動を支える重要な拠点であり、マギー一門の伝統と革新を象徴する存在と言えるでしょう。
マギー司郎の学歴
マギー司郎さんは1946年3月17日、茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に生まれました。
9人兄弟の7番目という大家族で育ち、当時は裕福とはいえない暮らしのなか、地元の学校に通っていました。
出身小学校は「養蚕小学校(現・筑西市立養蚕小学校)」。
小学生時代はおっとりした性格だったようで、周囲の子どもたちと同じように農作業を手伝いながら育ったそうです。
眼鏡が必要になった際、母親が米と物々交換して手に入れてくれたというエピソードも残されており、当時の家庭の様子がうかがえます。
その後、下館市立第三中学校に進学します。
勉強にはあまり熱心でなく、成績も芳しくなかったと語られており、授業中に先生によく叱られていたことを自ら振り返る場面もありました。
一方で、話すことが得意でクラスではムードメーカー的な存在だったようです。
中学卒業後は進学せず、職業訓練所に通い始めたものの、すぐに辞めてしまいます。
しばらくは地元で過ごしていましたが、17歳のときに上京。
東京のマジックスクールに入所し、夜はマジックの勉強、昼はアルバイトという生活を3年間続けました。
そして20歳でプロマジシャンとして本格的に活動をスタートさせます。
学校での学びは早めに終わったものの、上京後の修業期間がマギー司郎さんにとっての“人生の学校”だったとも言えるかもしれません。
茨城の町で育まれた素朴さと、東京で磨いた話芸と手品。
この組み合わせこそが、現在の芸風の礎になっているように感じられます。
マギー司郎の実家
マギー司郎さんの実家は、茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)にありました。
9人兄弟の7番目として生まれ、農業を営む家庭で育ちました。
幼少期は経済的に厳しい環境で、眼鏡が必要になった際、母親が米と引き換えに手に入れてくれたというエピソードもあります。
中学卒業後、職業訓練所に入所したものの途中で辞め、17歳で上京し、マジックスクールで手品を学び始めました。
20歳でプロのマジシャンとしてデビューし、独自の芸風を確立していきました。
学歴に頼らず、自身の得意なことを見つけて伸ばしていった姿勢は、多くの人に勇気を与えています。
マギー司郎の生い立ち
マギー司郎さんは、1946年3月17日、茨城県真壁郡下館町(現在の筑西市)に、9人兄弟の7番目として生まれました。
実家は農業を営んでおり、幼少期は経済的に厳しい環境で育ちました。
眼鏡が必要になった際、母親が米と引き換えに手に入れてくれたというエピソードもあります。
中学卒業後、職業訓練所に入所したものの途中で辞め、17歳で上京。
マジックスクールで手品を学び始めました。20歳でプロのマジシャンとしてデビューし、独自の芸風を確立していきました。
35歳のとき、テレビ番組『小川宏ショー』に出演した際、白内障で入院中だった母親からテレビ局に連絡があり、約20年ぶりに再会を果たしました。
この再会は、マギー司郎さんにとって大きな転機となり、以降、故郷との関係も深まっていきました。
マギー司郎さんの生い立ちは、決して平坦なものではありませんでしたが、その経験が現在の芸風や人柄に大きな影響を与えていることは間違いありません。
マギー司郎の父親と母親
マギー司郎さんのご両親に関する詳しい情報は多くありませんが、いくつかのエピソードから、その人柄や家族との温かな関係が垣間見えてきます。
お父さんは、戦後の茨城県下館町で農業を営みながら、9人きょうだいを育てていた働き者だったようです。
経済的には決して豊かとは言えない中でも、子どもたちをしっかりと支えていた存在だったことがうかがえます。
あまり多くを語るタイプではなかったのか、マギー司郎さんの口からお父さんの話が出ることは少ないのですが、ある出来事からその優しさが伝わってきます。
小学生の頃、給食用のコップを用意できなかったマギー司郎さんのもとに、お父さんが後からコップを届けてくれたという話があります。
ただ、そのコップは他の子よりも小さく、周りからからかわれてしまったそうです。
それでも、そうして届けてくれた行動からは、不器用ながらも息子を思う気持ちが感じられます。
一方、お母さんについては、マギー司郎さんが今でも強く覚えている言葉があります。
その小さなコップのエピソードのとき、「みんなと同じじゃなくて、よかったじゃない」と微笑みながら言ってくれたそうです。
その言葉に救われたと語っており、母の前向きでおおらかな性格が、マギー司郎さんの芸風や人柄に大きく影響しているのかもしれません。
また、35歳のときに出演したテレビ番組『小川宏ショー』を偶然見たお母さんが、入院先の病院からテレビ局に連絡を入れたこともありました。
その連絡がきっかけで、20年ぶりの再会を果たすことになります。
ずっと離れていた間も、陰ながら見守っていたお母さんの存在は、マギー司郎さんにとってかけがえのないものだったはずです。
家庭の中で多くを語らずとも支えてくれたお父さん、温かい言葉で励ましてくれたお母さん——そんな両親のもとで育ったからこそ、マギー司郎さんの飄々とした語り口や、どこか懐かしさを感じさせる芸風が生まれたのかもしれません。
マギー司郎の兄弟や姉妹
マギー司郎さんは、9人きょうだいの7番目として、茨城県下館町(現在の筑西市)で育ちました。
男兄弟の4番目にあたることから、「司郎」という名前が付けられたそうです。
大家族の中での生活は、食事の際に納豆がどんぶりいっぱいあっても、油断すると5粒ほどしか残っていないというほど、早い者勝ちの世界だったと語られています。
それでも、上のきょうだいたちが下の面倒をよく見る、仲の良い家庭だったようです。
マギー司郎さんが16歳で上京した後、長い間故郷には戻らず、母親に連絡することもなかったそうです。
35歳の時、テレビ番組『小川宏ショー』に出演すると、白内障で入院中だったお母さんからテレビ局に連絡が来て、後日故郷の病院を訪ねて約20年ぶりにお母さんと再会したというエピソードがあります。
このような大家族での経験が、マギー司郎さんの芸風や人柄に影響を与えているのかもしれません。
現在は、多くの弟子を抱えるマギー一門の領袖として、後進の指導にも力を入れています。
まとめ
これまで見てきたように、マギー司郎さんは華やかな芸能界で長年活躍を続ける一方、実家は茨城の農家で9人きょうだいの7番目として育ったという、地に足のついた温かい生い立ちを持っています。本名は野澤司郎さんで、学歴は中卒。
高校には進学せず、17歳で上京し、自らの道を切り拓いてきました。
年収や生活の実情も包み隠さず語る姿には、飾らない人柄と誠実さがにじみ出ています。
お父さんやお母さんとの思い出、そして多くの兄弟に囲まれて育った経験が、現在の柔らかく親しみやすい芸風に結びついていることは間違いありません。
テレビで見る軽妙な語り口の裏には、長年にわたる努力と、家族との深い絆がありました。
そんなマギー司郎さんの背景を知ることで、今後の活躍にもさらに温かい目を向けたくなりますね。

